日立製作所(以下、日立)は2025年1月21日、自社の生成AIのスペシャリスト集団「GenAI(ジェンエーアイ)アンバサダー」を発表した。GenAIアンバサダーは金融や公共などの業界、開発や分析などの専門領域に特化した経験と技術力、生成AIに関する深い知識を有するメンバーで構成される。社内での生成AI活用をリードするほか、顧客向けソリューションの研究開発やコンサルティングなどの支援にも携わる存在だ。
幅広い事業を展開する日立は、生成AIの有効活用に向けて社内外でさまざまな取り組みを行っている。その一つが製造業の根幹を支える材料開発への適用だ。材料開発の現場では、機械学習やデータマイニングなどの情報科学を用いて開発を効率化するマテリアルズ・インフォマティクス(以下、MI)の導入が進んでいる。日立はこのMIへの生成AI適用にも一層注力する考えだ。 では製品の基となる材料開発は、生成AIでどう変わろうとしているのか。GenAIアンバサダーの1人、照屋絵理氏に聞いた。
では製品の基となる材料開発は、生成AIでどう変わろうとしているのか。GenAIアンバサダーの1人、照屋絵理氏に聞いた。
「研究者の勘と経験が全て」だった材料開発の世界
照屋絵理氏(日立製作所 公共システム事業部 公共基盤ソリューション本部 デジタルソリューション推進部 主任技師 博士<理学>)
照屋氏は大学院で原子核理論物理学を専攻して博士号を取得し、2017年に日立の研究開発部門に入社した。物理学で用いる数学的スキルがデータサイエンス分野で生かせること、幅広い事業領域を持つことに魅力を感じて入社を決めたという。
入社後はテキストマイニング技術のR&D(研究開発)に携わった。現在所属する公共システム事業部から「MIにおけるテキストマイニング技術活用の可能性」について相談を受けたことをきっかけに、材料開発の支援に従事するようになったという。同氏は、材料開発の課題をどう捉えているのか。
「材料開発の現場でも、市場ニーズに応えるために開発スピードをいかに速めるかが求められています。しかし材料開発は、研究者の勘と経験に基づく試行錯誤の連続です。『過去の傾向から、この添加剤を多めに入れれば良い材料ができる』『理由は不明だが、なぜかこのベテラン研究者がやるとうまくいく』──そんなこともある世界です。こうした属人的な開発は時間がかかりますが、数年前までは当たり前で現在も一部で続いています」
社内人財のスキルセットを可視化できていないことも課題だという。材料開発の過程でトラブルがあったとき、個々人のスキルセットが分からないため社内に解決策を知っている人がいても質問することができない。また、実験データのサイロ化も深刻な課題だ。データが研究者個人にとどまり、全社的に共有できない。その結果、「同じ実験を別の部門で重複して行うなど、非効率な状況が発生するケースもある」(照屋氏)という。

材料開発に及ぼすMIのインパクトと、一筋縄ではいかぬ導入
こうした中、材料開発の効率化とスピードアップに貢献するとして注目されているのがMIだ。MIは2011年に米国オバマ政権下で始動したデータ駆動型材料開発プロジェクトで世界的に注目を集めるようになった。機械学習などの情報科学を使って有機材料、無機材料、金属材料などを効率良く開発することをめざす。
「配合量や物性値といった実験データをAIで分析し、材料の特性や配合比、作り方、物性値などを予測して最適な開発経路を導き出します。これによってより速く、より高い確度で材料を開発できるようになります。ある材料を作るのに100回の実験が必要だったところを、MIを使えば20回の実験で開発できるようなイメージです」
属人化やスキル継承といった課題も解決する。計算科学の手法を用いて、過去の実験データから実験を行わずに目標性能を予測することもできるからだ。蓄積された実験データをほかの研究者が利用したり、引き継いだりすることも実現する。

国内では、2015年に産官学が連携した「情報統合型物質・材料開発イニシアティブ」が発足し(2020年3月に終了)、日立でも取り組みが大きく進展した。しかし同時に、データにまつわるさまざまな課題に直面するようにもなったという。
「実験設計や配合比の決定といったデータ分析を成功させるには、実験データの質と量が重要です。日立でMIの取り組みをスタートさせた当初、お客さまからよく聞く課題が、MIに使うための実験データの蓄積でした」
データが蓄積されていたとしても、さらなる課題があった。「データの適切な整形」だ。分析に用いるためには、「物質A:○グラム」「物質B:○グラム」「熱伝導率:○%」といった具合に情報を整えて蓄積し、正規化する必要がある。しかし、過去の実験データが全て同じ形で取得・記録されているとは限らない。例としては「物質の名前に表記ゆれがある」「実験結果が自然文で書かれている」などが挙げられる。照屋氏は、「過去には紙の実験ノートも珍しくありませんでした。データの整形はMIの大きな課題の一つです」と話す。
現場教育の問題もある。MIに取り組む理由やメリットを社内で共有するのは想像以上に難しい。自分のスタイルで残してきた実験データを、特定のフォーマットに沿って入力することに抵抗を覚える人もいる。業務プロセスの変更に対する抵抗感やメリットの理解不足を、どう解消するかも重要な視点だ。
生成AIでデータの蓄積や品質向上を支援 日立が創る「次世代のMI」
日立はこうした課題を解消すべく、照屋氏らGenAIアンバサダーやデータサイエンティストの知見を取り入れて開発した「材料開発ソリューション」を提供している。MIのデータ収集、蓄積、活用を一貫して支援するものであり、主に材料メーカーのR&D部門に活用されているという。

材料開発ソリューションは「分析支援サービス」「分析環境提供サービス」「DX支援サービス」「実験データ収集サービス」の4つのメニューで構成される
「材料開発ソリューションは、MIにおけるデータ量不足やデータ品質といった課題解決を、生成AIを使って支援します。代表的な例に、『公開特許や論文などの文献から生成AIやテキストマイニングでデータを抽出する』などがあります」
データ不足やサイロ化については「実験データ収集サービス」が役立つ。実験テーマに応じて共通フォーマットを定義し、それに沿って入力することでMIの分析に適した形でデータを収集できる。これにより、研究者が各自でバラバラに保存しがちなデータを一元化して、共有や検索も行えるようになる。ユーザビリティの高いGUIで、入力者の負担も少ないという。
分析作業は「分析支援サービス」「分析環境提供サービス」で支援する。前者は企業の実験データを日立が預かり、分析を代行するサービス。後者は分析の“仕組み”を提供するもので、企業はGUIで実験データをアップロードし、簡単なボタン操作だけで分析結果を得られる。「前者は、まずMIを試したいというお客さまに選ばれており、後者はそのメリットを理解しているお客さまに提案しています」と照屋氏は補足する。
人の柔軟な発想を生成AIが支援
材料開発ソリューションは、前述のように日立もMIの課題に突き当たり、一つ一つ乗り越えてきた経験を基に開発したものだ。日立は論文や特許といった文献から実験データなどの情報を抽出して構造化することから始めたが、従来は抽出に生成AIではない自然言語処理技術を使っていた。

「ここに生成AIを活用したところ、情報の抽出精度や運用保守の面で大きな効果を実感できたのです。今では複数の処理ロジックに生成AIを使っています」
その後、RAG※を使った文書検索などにも活用を広げ、取り組みを加速させていった。実体験に裏打ちされたソリューションだからこそ、顧客にも自信を持って薦められるというわけだ。そんな自身の経験から、照屋氏は「新しい材料開発のアイデア創出にも生成AIは有用」だと話す。
※Retrieval-Augmented Generation(検索拡張生成)の略称。LLMにない情報を利用して回答を作る技術を指す。
「材料開発は、どんな材料が世の役に立つのかを考えるところから始まります。しかし人は過去の経験にとらわれがちです。固定観念に縛られてしまうと、新しいアイデアを生み出すことが難しくなってしまうものです。その点、生成AIを上手く活用すると『一見遠いが関係性が深い情報』を提示するなど、多様なデータを基に発想を広げる手助けをしてくれます。これについても材料開発ソリューションと組み合わせて利用できる『アイデア創出支援サービス』を用意しています」
生成AIとの信頼関係をどう築く? GenAIアンバサダーの真価
自社内と自身の経験を基に、「材料開発のイノベーションを支援していきたい」と改めて語る照屋氏。今後についても「さまざまなシーンでこれまで以上に生成AI活用が進む」と予想する。
「すでに世の中では研究計画から実験、評価、論文作成まで、全て生成AIが実行する試みが行われています。AI同士が人間のようにやりとりしながら研究を進めていく試みですが、現状の生成AIではまったく新しい研究テーマを出すことが難しかったり、正しくない結果を導き出したりすることがあります。そこで人と生成AIが共創するアプローチも研究が進んでいます。材料開発やMIへの適用についても、材料の科学知識やシミュレーション、実験データなどを組み込んだり、分子構造や3D構造などの化学の表現形式を学習させ、ドメイン特化型の生成AIを開発する研究が進行中です」
一方で、人ならではの役割も問われている。生成AIは既存のデータからしか学習できない。現状は、既知の事象から大きく飛躍する未知の事象の発見や大きなブレークスルーは「人の仕事」であり、生成AIはその能力を拡張する有能な補助役だ。しかし中には、「生成AIを信用できないという思いから拒否感が生まれ、人との共創が進まないケースもある」(照屋氏)。これは、そのドメインの専門知識を持つ人ほど顕著だ。考え方を変えるのは容易ではないが、その突破口を示すのも照屋氏らGenAIアンバサダーの役割だという。
「私が日々感じているのは、生成AI活用を推進する上で重要なのは『技術だけではない』ということです。なぜ生成AIが必要なのか、どういうメリットがあるのか、生成AIを活用することでどんな世界が広がっているのか。現場の感情に寄り添った丁寧な価値共有によって、生成AIを活用できる組織の土壌を耕すこと。ただソリューションを提供するだけではなく、イチから伴走支援を行うこと。それがGenAIアンバサダーの役割であり真価だと考えています。日立には多様な分野のGenAIアンバサダーが多数在籍しています。活用で迷ったときにはぜひ最初に思い出していただきたいですね」

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ITmedia 2025年1月31日掲載記事より転載
本記事はアイティメディア株式会社より許諾を得て掲載しています
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