インダストリアルAIは、産業全体のミッションクリティカルなシステムに深く関わる領域であり、導入には強い覚悟 と慎重な姿勢が求められます。2000年代初頭より、シリコンバレーでは多少の失敗を許容しながらソフトウェア開発を促進するという意味を持つ「Move fast and break things(速く動いて、壊せ)」という言葉がソフトウェア開発の加速を象徴していました。
エンタープライズアプリケーション、ソーシャルメディア、ゲーム、そして人工知能(AI)、特に2022年末のChatGPT登場以降、急速に進化した生成AIに大きな進歩をもたらした考え方です。しかし、急ぎすぎることで信頼性が損なわれるリスクも顕在化しています。ChatGPTの短い歴史の中でも、ハルシネーション(虚偽の情報生成)や、バイアス、プライバシーへの懸念、著作権問題など、さまざまな課題が浮き彫りになっています。
インダストリアルAIの特性と日立の強み
急成長を遂げるインダストリアルAIの領域では、従来以上に慎重な対応が求められます。エネルギーから交通分野に至る産業現場において、AIが誤作動を起こせばその影響は甚大です。産業機器の高額な損傷、人的被害、サイバー脆弱性、収益や評判の損失など「AIの暴走」が産業界にもたらすリスクは多岐にわたります。つまり、企業や顧客、さらには社会全体の健全性とウェルビーイング の実現がインダストリアルAIにかかっているのです。
日立は産業機器と運用技術に深いルーツを持ち、日本における電動機開発の黎明期から、現代の高度な変圧器や高速鉄道に至るまで長い歴史を築いてきました。また、データ、インフラ、AIに関する長年の研究開発を通じて、さまざまな業界にソリューションを展開しています。
実際、日立はあらゆる業界におけるAIの課題に対応し、可能性を見出すことができる数少ない企業のひとつです。例えば、電力グリッドの再構築やエネルギー転換、製造業における自動化・自律化、交通事業者の稼働率向上や効率化など、幅広い分野においてAI導入を支援してきました。
こうした実績から、産業分野のお客さまは、めざす成果や期待されるROI、実際の課題を明確に把握したうえで、新たな可能性の発見やスケーラブルなソリューションの設計、そして本番運用への迅速な移行を実行するために、日立のソリューションや専門知識を頼りにしています。
AIの進展は誰もが認めるところであり、競争力を維持するためには積極的な対応が不可欠です。しかし、失敗の代償があまりにも大きいインダストリアルAIにおいては、どんな犠牲を払ってでもスピードを追求するということは許されません。日立にとって、インダストリアルAIとは「Moving fast and breaking nothing(速く動き、何も壊さない)」なのです。
産業現場におけるAI導入の複雑さ
インダストリアルAIの重要性は明白ですが、産業現場にAIを導入することは見た目以上の複雑さがあります。
安全性と信頼性への注目が高まることに加え、インダストリアルAIを成功させるためには、少量かつ多様なデータへの対応、深い業界知識の組み込み、説明可能性、物理的・工学的制約との整合性、そしてシステム・オブ・システムズのモデリング能力など、さまざまな要素が求められます。
さらに環境を複雑にしているのは、産業分野で扱われるデータの種類が常に多様であるという点です。センサーデータ、イベントデータ、保守記録、運用データに加え、音響データや画像データ、マルチモーダルな文書などが組み合わさることもあります。これらのデータの特性や業界ごとの違い、そしてそれらがどのように関連し合うか、あるいは関連しないかを理解することが、インダストリアルAIの導入を成功させるためには不可欠です。
少量かつ多様なデータ:産業現場では、非構造化テキスト、センサー記録、映像、制御信号、時系列データなど、まばらでノイズが多く非常に異質なデータが多く扱われます。これらの情報は通常、業界特有のプロトコルやレガシーシステムを通じて収集されるため、AI用途向けに十分整備されていない場合が多くあります。データが豊富に存在していても、ラベル付けが一貫していなかったり、オペレーターのメモ、保守記録、音声記録などに埋め込まれているといった課題があります。
深いドメイン知識:深いドメイン知識を生み出すためには、特定分野での経験と専門性が不可欠です。汎用アプリケーションとは異なり、業界固有の複雑さやニュアンスを学ぶには、長年の実務経験が必要です。こうした専門性がなければ、導入したAIは期待通りに機能せず、時間の浪費や収益の損失につながります。
説明可能性:エンタープライズAIにおいて重要性が高まる説明可能性は、インダストリアルAIにおいても非常に重要です。これは、ソフトウェアが機械学習モデルの機能や期待される結果を明確に説明し、モデルが最終結果に至った過程を示すデジタルの手がかりを提供することを意味します。規制当局からの要請も増えており、説明可能性はモデルやそれを使用する企業の信頼を高めます。
物理的・工学的制約との整合性:産業オペレーションにおいて安全性と信頼性は極めて重要です。これらを担保するために、物理法則を尊重し、システム設計に必要な工学的制約を理解するモデルを構築する必要があります。人間は直感的に物理法則を理解し、工学的制約を学びますが、AIモデルにこれらの制約を教えることは依然として課題です。
システム・オブ・システムズのモデリング:システム・オブ・システムズには正式な定義は存在しませんが、この概念は広く知られており活用されています。これは、複数の分散管理システムを統合し、さまざまな独立したシステムを監視・予測することで、パフォーマンスの最適化や価値創出をめざすエンジニアリング手法を指します。例えば鉄道分野では、予知保全とチケット販売やスケジューリングシステムを連携させることで、稼働率と信頼性を最大化できます。
インダストリアルAI導入の指針
2023年初頭に大規模言語モデル(LLM)が急速に普及した後、研究者たちはAIプロジェクトの多くがパイロット段階で停滞するという傾向に気付き始めました。Everest GroupのCEO兼創業者であるピーター・ベンダー=サミュエル氏は、当時「生成AIのパイロットの90%*は、すぐには本番運用に移行しないだろう」と推定し、一部はそのまま停滞し続ける可能性もあると述べています。
*Reasons Why Generative AI Pilots Fail To Move Into Production
その理由は多岐にわたり、管理すべきパイロットプロジェクトが多すぎることによる「パイロット疲れ」や、明確な投資対効果(ROI)が見出せないことなどが挙げられます。つまり、これ以上プロジェクトに時間やコストをかけるよりも、企業はプロジェクト自体を断念する選択をしているのです。
この傾向は、LLMへの急激な移行と同じくらい業界に大きな影響を与えつつありました。そこで日立は、お客さまがAI導入の道筋をイメージしやすくするために、最重要となる指針を厳選しまとめました。この指針では実践的なアプローチとして、企業に以下を推奨しています。
1. 成果志向で取り組み、目標や機能を明確化すること
2. 業界やデータ特性に合わせて設計された専用ツールを活用すること
3. AIの責任性と信頼性を確保すること―実際、AIがより責任あるものであればあるほど、得られる成果の信頼性も高まります
ユースケースに併せたAI活用
エンタープライズAIとは異なり、特定の業界向けに設計されたソリューションを求められるインダストリアルAIにおいてこちらの指針は非常に有効です。分析、保守・修理、運用最適化、品質保証、サプライチェーン管理などの領域は、一見すると業界横断的な性質を持つように思えますが、例えばエネルギー事業者と自動車メーカーを比較するだけでも、専門知識と高度な専門性が不可欠であることが分かります。
エネルギー事業者は、重要事象対応指令センターの最適化や、エネルギーの需要予測と消費管理、変電所の画像解析などにAIアクセラレーターを活用できます。一方、自動車メーカーは、モデルベースの歩留まり予測、状況に応じた柔軟なスケジュール調整、在庫最適化のためにアクセラレーターを利用できます。このように、ユースケースごとに活用方法が異なるインダストリアルAIの導入には、強い覚悟 と慎重な姿勢が求められます。
インダストリアルAIの今後の進化
エンタープライズAIとインダストリアルAIは異なるものの、共通の目的はビジネスパフォーマンスと顧客体験の向上にあります。企業はこれらの目的を達成するため、生成AIやエージェントといった新しい技術の活用方法を模索しながら、実証や導入のスピードを加速させています。
例えば、生成AIはインダストリアルAIを大きく強化し、インダストリアルAI 1.0からインダストリアルAI 2.0への移行を促しています。典型的な産業バリューチェーンには、設計・エンジニアリング、調達・サプライチェーン管理、製造・生産、設置・試運転、保守、顧客サポート、そしてサーキュラリティが含まれます。
インダストリアルAI 1.0では、主なデータソースは時系列データやイベントデータで、一部に画像データやマニュアルも含まれていました。この時代は、サプライチェーン管理、製造品質とプロセス最適化、保守の課題に注力していました。
生成AIの登場により、インダストリアルAI 2.0の幕開けが始まり、企業は初めて製品やプロセスの設計、調達といった上流工程への支援が可能になり、さらには設置・試運転やカスタマーサポートなどの下流工程にも対応できるようになりました。また、OT向けのコード生成や、自動化・ロボティクスのためのシミュレーションデータ生成、メタバースアプリケーションの実用性向上にも貢献しています。実際、生成AIが産業オペレーションに与える影響は、今後さらに大きくなると考えています。
インダストリアルAI 2.0時代のさらなる進展には、産業分野におけるAIエージェントやエージェンティックシステムの活用拡大が重要な役割を果たします。ただし、産業分野の専門知識は容易にアクセスできるものではなく、ミスによるコストも非常に高いため、生成AIの導入に比べて難易度は高くなります。それでも、AIエージェントの開発と導入が産業界全体に広がることで、業界の変革がさらに加速していくことは間違いありません。
パートナー選びの重要性
インダストリアルAIの利点は明白です。生成AIを活用した産業プロセスの変革、現場作業者を支援するエージェント型アーキテクチャの構築、自律機能の導入を加速させるアクセラレーターの活用など、いずれの取り組みにおいても市場は急成長が見込まれています。実際、製造業はインダストリアルAI分野の中でも最も成長が著しいセグメントの一つです。世界経済フォーラムの試算によれば、世界のAI製造市場は2023年の32億ドルから、2028年には208億ドルへと急拡大すると予測されています。
企業にとって真の課題は、このAIの導入において誰とパートナーシップを組むかを見極めることです。日立においては、産業機器やOTに根ざした歴史、そして何十年にもわたるAIやデジタル技術の開発経験こそが最大の強みです。理想的なパートナーは、これら両方の分野で豊富な経験と専門知識を持っている必要があります。インダストリアルAIは、それほど重要な領域であり、これらを欠くことは許されないのです。
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執筆者:Chetan Gupta
Chetan Gupta博士は、Hitachi Global ResearchのAI部門責任者であり、日立製作所の先進AIセンターのゼネラルマネージャーを務めています。
*こちらはCIOの記事を翻訳したものです。