地政学リスクや気候変動による不確実性の高まり、技術の高度化に伴う複雑性の増大、そして熟練人材の慢性的な不足——製造業を揺さぶるグローバルな混乱は、収まる気配がありません。
データドリブンで業務を再設計するデジタルトランスフォーメーションは、IoTからサイバーフィジカルシステムに至るまで膨大に生成される情報を、意思決定に直結する知見へと昇華する「切り札」として期待されてきました。とはいえ、現実には、この膨大な情報の束を実際の業務に活かせる知見へと磨き上げることは容易ではありません。
多くの工場現場では、試運転、立ち上げ・停止、設定値の調整、点検、トラブルシューティングといった日々の業務が途切れることなく続きます。こうした活動は総じてOT(Operational Technology:制御・運用技術)の領域に属します。
OTから生まれる知識は、大きく二つに分かれます。ひとつは配管計装図(P&ID)や機械・電気の各種図面、作業指示書などの「OTデータ」。もうひとつは、熟練者が受け継いできた故障診断のノウハウやプレイブック——「何から確認するか」「制御ループをどう見立てるか」「どの故障モードを優先的に除外するか」といった「OTスキル」です。
これら異なるOT知識の間に張り巡らされた複雑で精緻な関係を読み解き、価値へと転換することは、長年にわたり産業界の課題でした。LLMの登場も、その課題を自動的に解決するわけではありません。生成AIがテキストや画像の扱い方を一変させたのは事実ですが、最大の運用価値が生まれるのは依然として現場です。すなわち、ポンプやバルブ、ドライブ、コントローラが、安全かつ予測可能に稼働し続けるラインの足元です。
この断絶を埋める現実的な道筋は、OTデータと、最も経験豊かなオペレーターが持つ暗黙知を組み合わせて活用することにあります。
変革を駆動するエージェント
日立は、創業以来、設備とその運用に根差した歴史を持ち、分析・データ・AIの取り組みも数十年にわたって磨いてきました。だからこそ、日立はインダストリアルAIを支える現場とデジタルの両面に通じる稀有な存在です。ロボティクスとセンサーが織りなす巨大なエコシステムにAIを適用する「Physical AI」の実装は、OT・IT・AIを束ねてきた当社の歩みの自然な延長線上にあります。
空調機器を製造するダイキン工業株式会社は、こうしたOTとAIの世界を結び付けるため、日立との協創を開始しました。狙いは、工場の設備故障診断を支援するAIエージェントの実装です。
2025年4月、私たちはAIエージェントの試験運用を開始しました。このエージェントは、設備図面をナレッジグラフへと変換し、OTデータとOTスキルを結び付け、STAMP(System-Theoretic Accident Model and Processes)/CAST(Causal Analysis based on System Theory)に基づく分析経路を実行。識別力の高い点検項目と是正措置を提示します。
この「設備故障診断AIエージェント」は、ダイキン各拠点に蓄積されたOT知識と、新たに入ってくる保全報告を取り込み、運転中に設備故障が発生した際に、その原因と対策を保全技術者へ迅速に通知します。
技術的には、まずダイキン工場の設備図面を、生成AIが読み解けるナレッジグラフへと変換し、続いてOTデータを学習させ、STAMPに基づく日立独自の設備故障原因分析プロセスに入力します。
試験運用の結果、AIエージェントは一般的な保全技術者と同等以上の診断精度を示しました。複雑な、あるいは未経験の故障に対しても有効で、約10秒の応答時間で90%超の精度を達成。平均修復時間(MTTR)の短縮に資するだけでなく、拠点やシフトをまたいだ保全品質の標準化にも寄与します。さらに、技能ギャップの解消と、ダイキンのグローバルな生産拠点拡大の下支えにもつながります。
RAGだけでは現場に届かない理由
企業向けAIの古典的アプローチは、まずRAG(RetrievalAugmented Generation:検索拡張生成)から始まります。これはマニュアル、図面、過去チケットを引き出すのに有効です。しかし、ミッションクリティカルな環境で重大故障が同じ形で繰り返されることは稀です。事象のたびに対策が講じられ、次の兆候は姿を変えます。
現場で効くのは「検索拡張推論(Retrieval Augmented Reasoning)」です。適切な図面の一部や標準作業手順を検索しつつ、設備の構造と分析スキルを踏まえて、裏付けとともに識別力の高い点検と安全な対処を提案する力です。
初期の概念検証では、RAGベースの仕組みは、マニュアルや記録に載る既知の故障については一定の精度で回答できました。一方、似て非なる事象や、全く新しい故障モードに直面すると途端に苦戦します。たとえば「バルブの問題」とは言えても、数十あるバルブのどれかを特定できず、根本原因を取り違えることもありました。ダウンタイムのコストが高く、安全最優先の現場ではこうした事象は許されません。
求められるのは、制御構造を解析し、物質や信号の流れをたどり、未知のシナリオでも最も可能性の高い故障点を絞り込む力です。設備とその構造を表すナレッジグラフに、熟練者の段階的な診断ロジック(スキル経路)を組み合わせることで、それが実現します。ダイキン向けAIエージェントは、その具体例です。
生成AIとOTの相乗効果
インダストリアルAIの精神は明快です。「Moving fast and breakingnothing(速く動き、何も壊さない)」。生成AIとOTの融合がもたらす成果は、チャットボットの利便性を超え、運転の安定化、トラブルシューティングの高速化、そして不意の事象の抑制という形で現れます。そこにベテランの知見を重ねれば、それは未来のビジョンではなく、今日から導入できる実践的なアプローチになります。
最良の技術者のプレイブックを捉え、AIエージェントに組み込む——それによって、すべてのシフト、すべての拠点、すべての新任者が、組織の集合知の恩恵を受けられるようになります。これこそが、製造業のリーダーが技能ギャップを埋め、ダウンタイムを減らし、次の十年に通用する強靭なオペレーションを築く道筋です。
執筆者:吉村健太郎
吉村健太郎氏は日立製作所研究開発グループモビリティ&オートメーション イノベーションセンタの主管研究員です。ソフトウェア工学、特にソフトウェアプロダクトライン工学(SPLE)と生成AIの応用を専門とし、ソフトウェアの多様性を管理するための手法開発に取り組んでいます。

*こちらはCIOの記事を翻訳したものです。




